2004/06/17

生きる事


一緒に歩いていた友達が突然道ばたで叫ぶ「新しい職場で皆に馬鹿にされてるのが我慢出来ない〜」、彼女の能力を考えると無理も無い事である。女性である事による差別、今日本で進みつつある「職種別カースト制」による差別、自身の収入では食べて行けない「親掛かりの若手」の存在を前提とした低賃金体系の完成など、彼女を取り巻く環境は、自身の収入のみで生活していかねばならない中年にさしかかった独身女性にとって大変辛い物になりつつある。
ある雑居ビルの3階フロア、その片隅の事務所からの帰りに、以前良く行った店の前を通りかかったら、まだ開店前のドアが開いて、偶然顔を出してきたマスターが私に言う、「いつヤメようか迷っているうちに借金ばかりかさんでいる、もう戻れないが進む事も出来ない」、以前は活気があったこのビルも、所有会社の債務整理の対象となって売却されてからは、美容室やレストランに替わって、ヘルスやマッサージ、サラ金などが入り始め、普通の客の入りにくい環境になったことで、女性客が多かった彼の店はここ数年は赤字経営となっていた。多少はあった蓄えもすでに底をつき、いよいよ決心する時期になりつつあるようだ。この話の彼女も彼も、もうすぐ40代50代となり、今の日本ではまともな就職口は全くない。では以前はとりあえず再起する人々を受け入れていた「ガソリンスタンド」や「ファミレス」はセルフ化による人員減や、フリーターや主婦のように、自身の収入では食べていけなくても良い人達を対象とした超低賃金のせいで、いまや自立して生活して行くための職場としては機能していない。親も子も当てに出来ない単身生活者である彼らも(私も)、いずれは能力に見合った収入を得られなくなり、いずれ遠からず今の仕事を失い、低賃金の新しい仕事で僅かな蓄えも使い果たす消耗戦に突入する。そのときに我々を支えるはずの仕事であったはずの「トイレ掃除のおばさん」や「ビル掃除のおじさん」や「スタンドの夜間従業員」や「コンビニの深夜バイト」は、すでに前述の「食べて行く必要のない若者や主婦」に占領されていて、中高年単身生活者の入り込む余地はない。いま納めている国民年金では家賃も払えないのは解りきっている。つまり我々は、まず仕事の能力を過小評価されるようになり、その評価に見合った賃金体系に組み入れられ、その賃金体系下では当然年金納付や健保納付は不可能となり(現在の未納者はほぼ自営業と契約社員である)、家賃も払えないのでホームレスとなり、その日暮らしとなるのである。この事をしっかりと自覚していなければ、自身の生きる道をあやまる事になると思う。たかが数千万の蓄えではこの流れから逃げる事は出来ない。いまはまだ友達と飲み、サッカーを観、車を買い換え、温泉にも行く生活をしていても、50代も後半になる頃には、都市で生活する単身者にはもう生きて行く術は限られているのだ、われわれの一生はこのような物だということを自覚して、道ばたで死んで行く事を受け入れて行かねばならない、そういう時代に日本はなっている。

2004/06/09

せつない思い

夕暮れの街、速度を上げて帰宅を急ぐ車の流れの中で、幾分戸惑う様な素振りで道路の左端を走って行くのは、僕の友達の乗った白いスクーターだ。若い頃には結構美人でわがままだった彼女も、結婚そして離婚、不倫の果ての摂食障害と対人恐怖からの引きこもりから、大変辛い努力をしながらも次第に立ち直りつつある証拠が、最近買った「白いスクーター」での夕暮れのお出かけなのだ、まだCDショップやショッピングセンターなどに寄って、カフェのテラスでちょっとだけお茶をして誰とも話さずに帰って来るだけだけど、いずれはコスメショップで以前のように化粧品を買いに行きたいって上目使いにはにかみながら話す彼女は、今スクーターに乗って、交差点で立ち止まる僕の前を通過して、夕暮れの街の中に赤いテールランプを輝かせながら消えてゆく。

すっかり暮れてしまい人通りも少なくなって来た街角の雑居ビル、階段の踊り場でカフェモカのカップを手にタバコに火を点ける彼女は昼間は小さな工場で働いているが、夜はこの街の風俗店で週2回働いている。子供を預けている母親にはコンパニオンをしていると言っておいてのこの仕事だが、彼女自身なぜ続けているのかわからない。結婚して子供が生まれ、なんとなく離婚して実家に帰ってからは、生活費もほとんどかからず、紹介されて入った職場での給料もほとんど自身の買い物に使っていて、別段収入に不足は無い。離婚した当初はごたごたしていた男関係も自然に無くなり、最近はもう数年続いている職場の妻子持ちとの不倫だけだが、特別に好きという訳でもなく、ただ何となく他の人を好きになっては悪いと思っている程度で、そのせいか、最近彼女の事をデートに誘ってくれる男友達ともそれ以上の関係になるつもりは無い。どうも自分を本当に愛してくれているのはその男だけだと思いながらも、これ以上親しい関係になるつもりもなく、でも離れていかれるのも何となく寂しいような気もする。いずれにしても皆には秘密にしているこの生活も、いずれは年齢のせいで変えていかなければと思っているが、結局はその時々の年齢でもできる風俗を見つけて同じように続けていくと感じている。店の他の女の子にはお金のためだと言ってあるが、自分でも本当に解らない、結構迷いながらもいつも買うのは同じ「カフェモカ」なのと同じに。

人影もまばらな深夜の地下鉄の車内で小さい背中を丸くかがめて技術書を読んでいる彼女は、小さな会社でシステムの仕事をしている。学校を出てから付き合っていた友達の紹介で知り合った男と結婚して、初めて行った遠くの街で、ほとんど働かない男からの暴力と性的な虐待のために、心に大きな傷を受けて別れて出て来たこの街で、心をささえてくれる人を探している。これまでいつでも男はいて、その時々に心の崩れて行くのを支えてくれていたとは思うのだけれど、結局は別れて永くは続かないと何時でも思っていて、その通り永くは続かない。気がつくと友達も居ないし、友達を作る気もない。いつでも周りに振り回されるくせに、周りに溶け込む事を恐れている。毎日歩いている街に幾分の恐れを抱きながらも、自分を支えてくれる人を探して、今日も一人深夜の地下鉄で運ばれて行く。

2004/05/30

デザインのチカラ

たまに見るテレビで素人さんがいろいろなお宝を評価して貰う番組がありますが、その中で西洋のアンティーク陶器や中国の青磁などを「一目で気に入って大枚叩いて」買って来て、結局は偽物や写しだったりする事が良く有ります。
また、ハーレー乗りが集まる「オバカ集会兼鯨飲大会」である「ミーティング」の会場に出店している「安物銀もの屋」の商品でも、クロムハーツやビルウォールレザーやレナードカムホートなどの有名ブランドのデザインを模倣した物が良く売れて行きます。この2つの例で判るのは「デザインの力」という事です。骨董を「旦那買い」する人も、銀ものを「安物買い」する人もそれぞれ元になったオリジナルをほとんど見た事が無いはずですが、なぜそれを気に入ってしまうのでしょうか。
結局の所「オリジナリティ」のあるデザインのチカラは、悪意のある偽物からさえも弱いながらも魅惑の光を放っているのです。

2004/05/24

ほめる人、けなす人

とはいっても教育の話ではありません「デジカメ」の話です。私は若い頃にバイトでやっていた「写真」で食べて行くか悩んだ事が有り、結局は違う仕事の道に進んで行った訳ですが、その仕事を辞めるときに使っていた「CONTAX RTS」を、仕事先の先生からいただいて以来、結局は仕事では「CONTAX RTS」や「RTSII」などを使ってきました。使い続けた理由はやはり「カール・ツァイスT*レンズ」の持つ描写力にあると思います。当時の国産レンズの「シャープ」さを第一とした設計とは違い、ナチュラルな色目と素直な描写力、人物撮影には大変魅力的な良いぼけ味を持つ、大変良いレンズだったからです。実際今でもそれらのカメラを使い続けていますし、最近ではレンジファインダーの「CONTAX G1」も使っています。さて、私の仕事での撮影も、最近は次第に「銀塩カメラ」から「デジタルカメラ」に比重が移って来たのに伴い、複数台の「デジカメ」を使用して仕事をするようになって来たのですが、「一眼デジカメ」は別として、小型機ではレンズも含めた光学系の弱さを痛感する事になりました。そこでネットの掲示板などで「レンズを含めた光学系重視」で小型のデジカメの情報を集めてみようと思い立ち「CONTAX」ブランドの数機種と、「CONTAX」ブランド以外ながら「カールツアイスレンズ」搭載の数機種、「ライカレンズ」搭載の数機種にしぼっていろいろな意見を聞いてみました。そこではっきりした事は、デジカメの機能に対する考え方の違いが「評価の基準を2分」しているという事実でした。
まあ、簡単に言うと撮影した画像の評価に関して、光学系の持つ描写力をデジカメの性能として認めて「ほめる人」とまったく認めず「けなす人」に分かれる事でした。さて、何事も「ほめる」「けなす」には一定の法則があると思います。それは「ほめる人」は大体において、こちらの投げかけた質問の主意(今回の場合は光学系の評価)を理解して評価して「ほめる」場合が多く、「ほめない人」も事の本質を理解して否定している以上「ほめる人」と同質であるとして、「けなす人」はどうも投げかけた質問の主意が理解出来ず、全く異なった論点で評価した結論をもって「けなして」いる人が多いようです。例えば今回の例で言えば、「ほめる人」はデジカメの撮影したデータの持つ表現力に関する光学系の影響する点について「評価」してくれる人が多かったのですが、「けなす人」の場合は始めから主眼の「光学系」については全く評価せずに、「大きさが大きいから全くダメ」とか、「シャッターが落ちるのが遅いからダメ」とか「特定メーカーの製品は嫌いだからダメ」とかの、今回の論点とは全く異なった事で「全否定」してくることが多いようです。また「ほめる人」の場合は自身の感性での評価を根拠として評価する場合が多いようですが、「けなす人」の場合、その根拠が伝聞や風説に基づいた場合が多く「皆がそう評価しているから当然私もそう評価する」という考えの人が多いように思います。
この事から判るように「ほめる人」とは論点がかみ合った議論が出来ますが、「けなす人」の場合はハナから論点が理解出来ない人なので全く議論が噛み合ないという事です。結果「けなす人」の場合は議論をしようとしても感情的な反論がエスカレートする場合が多いようです。この点を理解すれば、日常のいろいろな事柄、例えば「国産信奉」と「外国産蔑視」に関する議論が噛み合ないことの理由もまた理解できると思います。結局の所「ほめる」には評価すべき点がなんであるかを「理解」している事が大事で、それが判らないでほめれば、相手の賛同も得られず、ただの「おべんちゃら」だと思われてしまうと言う事です。この事は皆さんも普段の生活で実感されていると思います。

2004/05/22

ヲタクのファッション

さて、「ヲタク」のファッションと言えば以前は「黒の学生風のズボン」にやたら長めの「おっさん臭い穴無しのベルト」、「白のワイシャツ」とスニーカー、「マジソンスクエア」のスポーツバッグのループを肩に掛け、薄茶の2重にした紙袋に大荷物を入れている、眼鏡七三分けの青白い顔の男、冬はダッフルコートを着用場合もあり秋葉原付近に多数生息する。または、変な切り返しのついたケミカルウォッシュのジーンズに、キャラクターTシャツまたはトレーナーという感じでした。
しかし最近は黒の編み上げブーツにカーキか迷彩のカーゴパンツ、ゲーム系のプリントTシャツにミリタリー系のジャンパーか、ストライプのTシャツの上にプリントタンクトップ、指の無い革手袋をしてGショックを装着、長髪を後ろで束ねて、丸眼鏡(サングラスも有り)とか、アーミーパンツに合成皮革のライダースなんてのもあって、昔のイメージに比べると大分カラフルになって来ている感じがします。さて、ではなぜ彼らのファッションが変わって来たのか考察してみましょう。
もともとの「ヲタク」のファッションとは、簡単に言えば「学生服」の上着を脱いだ状態であり、あるいは母親が近くのスーパーなどで価格優先で適当に買って与えた物を適当に着ている、というのが本当の所であって、これは取り立てて「ヲタク」のファッションというよりは、当時の国立大学の工学部の学生などの標準的な格好だったと思います。つまり昔の「ヲタク」は工学系の人々の一部をさしていたのです。思えば当時のお勉強命の田舎出身の大学生は、彼女が欲しいって色気は人一倍あったくせに、自身の格好について頓着するのはなにか妙な自尊心が邪魔するのか全く否定していて、とにかくダサイのが普通でした。しかし最近の工学部の学生は全くそんな事も無く、かといって「ヲタク」とは異なってまあ普通の若者のファッションをしています。では現在の「ヲタク」のファッションの源泉は何処にあるのでしょうか、それは「アニメの登場人物」と「ゲームの登場人物」なのです。実際、現在の「ヲタク」に占める工学系の割合は低く、どちらかと言えば「コア」な人達は大学などには進学していない場合が多く、ある意味で「アニメ」や「ゲーム」を生活の中心にとらえている人が多いようです。彼らは自身を「アニメ」や「ゲーム」に登場するキャラクターに擬する事を好むので、自然とそれらしいファッションになっていくようです。しかし、現在は一般の若者にとって「漫画」や「アニメ」、「ゲーム」などは有って当たり前で取り立て興味のある事では無くなっています。そのためによけいに「ヲタク」の若者と「普通」の若者との生活には乖離が起きている状況ですが、普通の若者にとっては「漫画」や「アニメ」、「ゲーム」は前述の通り有ってあたりまえの空気のようなものなので、ある意味「ライトなコスプレ」である「ヲタク」ファッションを街で見かけても、免疫が有ってそれほど違和感を感じないのが現状です。

ビールの味

今年になってから先輩の紹介で食事に寄っている居酒屋ではジョッキを冷凍庫でキンキンに、「冷やして」というより「凍らせて」あって、そこに麒麟の生を注いでだしてくれるのだが、これが不味い。冷え過ぎたジョッキの中では剥がれた氷片が表面に浮き泡は無惨にも消失し、苦みだけが際立った香りの無い液体が淀んでいるのである。周りを見ると日雇いの親爺や何が生業(なりわい)なのか不明な年配の客たちは「旨い旨い」と美味しそうに飲み干しているが、大方の客は2杯目は焼酎になっているようである。もともとからのビール好きである私は、ほとんどどんな環境でも美味しくビールをいただいているのだが、この味だけは何となく得心がいかずに「微妙な苛立」を感じながらも、カウンターの端に居所を見つけて時々はその「ビール」を頼んでいた。しかし、その店もいよいよ「まともな料理」も出ず、たいした「酒」もなく、あまりやる気の感じられない女将の甲斐性もとうとう尽きて、いよいよ閉店の運びとなったのがつい昨日のことである。その閉店の日、最後の一杯をやりに雨の中を店に足を運んでみれば、最後の日というのにどうということもなく、客は近所の年配客一人だけ、そこでなんとなくビールの話になり、その客が言うには、「最近のビールは馬の小便だ、やっぱり苦いキリンが一番だ、だいたいビールは最初の一杯だけが旨いのだ」と女将に向かって言い放ったのである。さてこの発言を受けての女将の言葉は「そうなのよ、最近の若いのはアサヒだの恵比寿だの言って、わたしゃキリンが昔っからあるんだからごちゃごちゃ言わずにそれ飲んでりゃいいのにって思うんだよねえ、まああたしゃビールは好きじゃないからどうでもいいんだけど」との事、さすがに驚いてしまうとともになにやら得心がいった次第である。
私はもともと幼年期から少年期に「バー」を家業としていた家で育ったのに加えて、周りは水商売を家業とする友達に囲まれて育ったという事も有り、いわゆる酒飲みの話は色々と聞いて育って来たのだが、今回と同じような話をたびたび聞いてきたような気がするのである。この「苦いのがビール」という認識は、昭和の世代に特徴的な「とりあえずビール」という現象と密接な関係があるような気がするのである。もともと私の子供の頃から「麒麟のビール」は本来はバドワイザーのような味に仕上がるはずの材料(米、コーンスターチなどの副材料)を使っているので(子供時分、工場見学時確認済)、「軽いアメリカンな味」になってしまうビールを、ホップを利かせて無理矢理あのような味に仕上げているのではと感じていたので、あの酵母の香りの無い熱処理をした「苦み」のビールを美味いとは思えなかったのが本当の所である。
私の子供の頃といえば「吾妻橋のアサヒ工場付属のビアホール」の生ビールの味が基本であり、家業では「恵比寿ビール」を出していた訳で、どうもあの系統の味がしっくりする体質なのであろうか。また同じアサヒの古いタイプのビールを出してくれていた「灘コロンビア」の肌理の細かい泡が立った適温のビールを大きめのビアグラスで飲む美味しさは、一番私の心を癒してくれる一杯であった事を思い出したのである。また長年のバイク乗りである「私」は、皆が「馬の小便」と蔑む「バドワイザー」や「クアーズ」などのアメリカンビアも、晴れ渡った草原でのミーティングの会場で、大音量で響き渡る「ロック」の中で、汗をかきながら水代わりに飲み干すあの味もまた好みとするところである。
さてこの原稿は「上野駅構内にあるアイリッシュパブ」の壁に向いたカウンターの端で、アイリッシュビアの「キルケニー」を1パイント、わずかに冷えすぎの感はあるもクリーミーな泡の乗ったグラスで飲みながら書いている訳である。このように最近では駅のなかでもそれなりのビールを飲む事が出来るようになった訳で、バブルの申し子とはいえ、酵母の香りのする本来のビールの味を全国で知らしめた「地ビール」のおかげか、いわゆる「ビール好き」にとっては今更あの「高度成長期のビール」の味に戻れるはずも無いのは自明の理であると一人得心している次第である。なお私の最近の気に入りは「マーフィーズ」である、アイルランドでは一番ポピュラーなビールであるはずのこの商品が、なぜか国内ではあまり見かけられないのが残念ではあるが、最近は入手するのもインターネットのおかげで割合に容易になっているので、ぜひお試しいただきたいと思うわけである。

2004/05/18

チキンラーメンは偉大である

チキンラーメンは偉大である、なぜならば今それを食べながら「大変満足」しているからである。おもえば子供の時はチキンラーメンはなにかあまり高級な感じがしないラーメンで、どちらかといえば、クリマタストアで買ってきた「マルタイの棒ラーメン」や「うまかっちゃん」なんかの豚骨味や、エースコックの「ワンタンめん」やマルちゃん「カレーうどん」や「「天ぷらそば」などの最下位に位置していたような気がします。おかげで家で食べた記憶はあまり無いのですが、しかし、しかしですね、いまこうやって食べてみるとですね、学生時代に、学校の前にあった怪しい店で出される「ラーメン」とはもろにこの「チキンラーメン」だったわけで、オバさんがかったるそうに丼に入れてお湯を掛けて出してくれたあの味、実家からの送金が途絶えて、パチンコの稼ぎで食っていた同級生が、景品で取ってきていて、遊びに行くとかならず出してくれた、鍋のまま出されたあの味、バーテン見習いの後輩が、下宿の3帖でこれがいちばんのごちそうだっていってご飯と一緒に鍋で煮ていたあの匂い、これらををまざまざと思い出したわけです。ああ、貧乏な酒飲みの若者の貴重な味方だったチキンラーメンは時代を超えて今でも皆に愛されている超定番商品として、日清食品の今期好決算をささえていると思うと感動してしまいました、「チキンラーメンは偉大である」

アキハバラの変容

我々の世代では、秋葉原という地名は特別の響きを持っているといえます。学研の科学の付録に心ときめいた思いのある「カガク少年」にとって、当時ワレワレの実感していた実現可能な「夢」は、「あらゆる物の自らの手によっての創造」でした。つまりアトムのようなロボットを、スタートレックの宇宙船USSエンタープライズ号のような宇宙船を生み出すのは来るべき未来の中で生きる自分達「カガク少年」が大人になった「科学者」が支えるのだ、というのが子供達のなかに在るある種の共通意識だったのです。ちょうど真空管の時代が去り、トランジスターが主流となり、ICチップがOPアンプとして金属の丸い筐体から8本の足をはやした火星人のような形を現し始めたばかりのエレクトロニクス時代の幕開けに遭遇した我々にとって、新世代の「あらゆるモノ」を創造するための大事な「部品」の入手先である「アキハバラ」こそが当時の「カガク少年」の夢見る聖地だったのです。
私にとっても、小学校低学年の時にてくてくとお茶の水から歩いて行った「科学教材社」の工作キットからはすぐに卒業して、当時はまだガード下の1坪の店だった「九十九電気」で買った各種トランジスタや抵抗類で作り始めたラジオやアンプ、高学年になって、本田通商や若松通商で買った半導体で作ったいろいろなガジェット類、中学のころ初めて手に入れた外国製集積回路、その後に手に入れた初めての4ビットCPUとその周辺回路、九十九が今のビルになったころ地下で買った「アップルIIe」のコピーボードとCPU。
結局「アキバ」の近くの大学に入り、当時はジャンク屋だった「イケショップ」で買った部品で作ったミキサーやエフェクター類、ゲーム機メーカーの友達が横流ししたZ80でコンピュータを作るために部品を確保に通った「国際ラヂオ」、「秋月電子」。
初めて買ったまともなパソコン「CASIO FP1100」の聖地だった「和知電子」、お店の立ち上げがら出入りしていた「プラットホーム」、「コピープロテクト解除ソフト」を売っていたあやしい頃から知っている「ソフマップ」で、独立するために大事なバイクを売って作った金でマック買いに行った「安売りのDAV2号店」、と売り掛けで仕入れを快諾してくれた「和知電子」などの思い出が沢山ある「アキハバラ」なのです。
この思い出で判るように「アキハバラ」の主流はまず戦後すぐに闇市としての「部品屋」と「ジャンク屋」で始まり、昭和40年代のオーディオブームに乗って「アンプやAV機器を扱う専門店」(サトームセンやラオックス)が多くなり、そこから昭和50年代に「いわゆる白物(冷蔵庫や洗濯機)を扱う総合家電店」(石丸電気や南無線など)が出てきて、その隙間を縫って、昭和60年代になるとジャンク屋や部品屋から始まった「パソコン屋」が大量に発生、平成に入ってのパソコンブームに乗って既存店もパソコンショップに衣替えして現在に至っています。しかし現在の「秋葉原」で目立つのは、「ゲームキャラショップ」「ロリコン系ショップ」「コスプレ系ショップ」「エロ漫画同人誌ショップ」「フィギア(人形)ショップ」などのいわゆる「ヲたく系」のショップばかりです。もともと工学系のダサイ感じの客の目立つ「アキバ」でしたが、最近はもっと怪しいバランスの服装の「ヲ」の人で溢れかえっています。今や「アキハバラ」はサイバーパンクなエレクトロニクスの聖地から、「アニメヲタク」の聖地へと変貌しつつあるのです。これらのショップは大手カメラ系流通店との競争に負けた「小規模家電店」や競争激化の割にはパイの小さい「自作DOS/V機」から撤退した「自作ショップ」の後に大量に出店してきているのです。さらにこれらの店にくる「ヲ」の人のための「コスプレ」系の風俗店も大量に出店し始めています。さてこれらのショップ構成の変化と客層の変化がもたらすのはなにかといえば、いわゆる一般客の減少でしょう。特に街の雰囲気を支配している根本的な「方向性」というか「本質」にこれまでの「カガク系」の客層と「アニメヲタク系」に決定的な違いが見てとれます。それは、「創る人」と「消費する人」との本質的な社会的性格の違いです。部品を買い何かを作って行く、パソコンでソフトを作るそういった事を通して独創的な物作りを夢見ている「創る人」と、アニメのフィギアを高額で買い取りコレクションしたり、「有名漫画キャラを借りて描かれた同人誌」を収集したり、ゲームキャラに扮したりする「コスプレ」などの「消費する人」との違いは埋める事の出来ない深い溝が間に横たわっているのです。つまり「独創性」が一番と思っている「カガク系」と、正確な模倣が一番だと思っている「アニメヲタク系」との消費性格の違いが街の性格として現れ始めているのではないでしょうか。私は「アニメヲタク系」にも知り合いが多いので少しも悪い感情を持ってはいませんが、やはりなにかコレクター特有の内向きのエネルギーを大きく持っているようで、このあたりは集めるだけで創らない「骨董趣味」の人と全く同じです。つまり自分の興味の無い分野は全く無視するのが特徴で、ついでにほかの分野の店を覗くことなど全くあり得ません。この辺は「中野ブロードウェイ」の変容と同じで、コスプレショップの間のある機械時計の専門店などは軽蔑こそすれ、絶対に入店することはないのです。
このように「ヲタク系」ショップの台頭とそれによる「客層変化」による「ポイント移動のよそよそしい雰囲気」によって「アキハバラ」は壊滅していくと結論付ける人もいますが、私はそうは思いません。もともと「パソコンおたく」や「ゲームおたく」の横溢していた「アキハバラ」に元から生息しつつあった「アニメ・コスプレ・ロリ系ヲタク」が台頭してきたけれど、やはり戦後このかた底流をなしている「自作系」のショップは健在なわけで、この主流の違いは工学部の志願者減少や、芸術音楽系への蔑視などにみられる日本の「創造する人」への軽視風潮が反映しているだけの事だとおもいます。
いずれにしてもこれからの「アキハバラ」は時代を反映した変容を遂げながらも、何らかの「聖地」でありつづけることでしょう。

携帯電話の高機能化

私の使っている携帯電話はGPS対応で「音声ガイド付きのナビ」が可能、さらにカメラはメガピクセルでストロボ内蔵と最近のトレンドは一通り押さえた設計となっています。高機能になった最新のGPS機能を最大限に生かす電子コンパス内蔵機能は、初めて実用的な「ウォークナビ」を実現しています。またカメラ機能はホームページの記事作成にデジカメが不要になるほどの便利さで大変重宝しています。
このように新製品が続々と発売されているのを見ると、携帯業界は我が世の春だと思っている人も多い事でしょう。では、本当の現状はどうなんでしょうか?
実は携帯端末は高機能化に伴い実にリスクの多い商品になりつつあります。現にソニーの米国市場からの撤退、日立とカシオの携帯部門の統合など、収益性の改善と、競争力の強化が各社な課題となっています。
ではどのような問題があるのでしょうか。リストにしてみました。
●端末は高機能化されていくが、デジカメなどの付加機能部分の開発コストは通話料などで回収できる性格のものではないので、現状はキャリア各社からの補助金で補ってはいても、結局は端末製造業者の負担になる。
●高解像度の画像やムービー、テレビ電話などの機能を生かすには、パケット通信料の大幅な引き下げが必要だけれど、現実にはキャリアー各社にとっては、収益をここであげている以上なかなか下げるわけにはいかないところで、結局ユーザーが高いパケット代を負担するはずも無い以上、目新しい機能であっても利用率は低くなってしまう。
●最近の携帯は高機能化に伴って、ソフトウェアの比率が高くなっていてそれだけバグの発生する確率も高くなり、発売後に発覚した場合の回収改変費用が膨大な物になる場合が多い。
●モデルチェンジのインターバルが短く、製造上のコストがあまり下がらない。
このような理由で、新機能追加ラッシュであっても、そのコストを負担を誰がするのかというビジネス上のモデルが確立されていないのではないでしょうか。負担先がはっきりしないまま疾走する高機能競争は、いまだにユーザー全体の支持を得られるような機能と費用のバランスを得ていないというのが本当の姿でしょう。その上での機能競争は各端末メーカーにとっては一種の消耗戦と化しています。

2004/05/15

国民年金を払わせないのは誰だ

国民年金の未払い問題がマスコミをにぎわせています。早朝のニュースバラエティ番組では訳知り顔のコメンテーターが、「払わないやつには罰則をもって厳正に臨むべき」だとか「払わないのは犯罪だ」などと吠えていますが、さて、国民年金の対象者ってどういった人たちなの?この質問をしてみると、サラリーマンや公務員の人たちはほとんどこう答えます「商売をやってる自営業者」。答えは「ブー」、はずれです。答えは、「サラリーマン」、「失業者」、「店員さん」、「作業員」、「バツイチのパートさん」、「フリーター」「大学生」、そして「自営業者」とその他です。
「なにいサラリーマン、おかしいじゃないか、俺もサラリーマンだけどちゃんと厚生年金加入してるぞ」って必ず突っ込みがあると思いますが、そういった方の勤務先ははっきり言って「大手企業の正社員」か「親切な経営者のいる企業」なのです。いまや、普通の企業でも、勤務する従業員の多くが契約社員やアルバイト、パートなどで構成されていて、企業のコストダウンに大きく貢献しているのです。さて、ではこういった声も聞かれるでしょう、「でも、ちゃんと給料貰ってるんだから、払うのがあたりまえだろう」ってね。「ブー」またまた不正解です。さて、あなたの会社のロビーを掃除しているおばさん達はあなたの会社がアウトソーシングした清掃会社の人ですよね。彼女達の給料を知ってますか?また、定年を迎えて職場を去って行った「先輩」は今、あなたも利用している駅前の駐車場に勤めていますが、彼の給料をしってますか?あなの息子さんは大学を出て3年も経つのに、いまだにバイトで食べてるようですが、彼の年収を聞いたことがありますか?、お隣のお嬢さんは広告代理店にクリエーターとして勤務していますが、いくら貰ってるかしってますか?
実は、日本の「母子家庭の平均月収」は平成16年5月現在、14万円を切っています。フリーターの月収もほぼ同様です。中小企業の従業員さんは年齢に関わらず月収が20万行かない場合がほとんどです。かれらはもう何年も同じ会社に勤務していわけで、実質的に「サラリーマン」であって「自営業者」ではありませんよね。さらに「失業者」です、日本では「雇用保険の有る会社」を離職して、雇用保険の給付を受けている状態の人を基本的に「失業者」といっていますが、ここで言ってるのは「ほんとうの失業者」のことです。障害認定の出るほどではないが体を悪くして仕事が見つからない人や、介護する親を抱えてパートに出る事もなかなか出来ない独身の息子やそのたもろもろの事情で継続的な就業が不可能な人達のことです。いまや若者や高齢者層の就業形態はドラスティックに変容しつつある訳で、これらの原因の一つには、雇用側の企業による「人件費圧縮政策」に基づく「各種保険、年金の企業負担回避作戦」にあることは間違いの無い事実です。たとえば「コンビニのアルバイト」さんですが、大手でも、継続的な雇用は認めない政策をとっています。実は深夜のバイトなどはなかなか定着してもらうのが大変なんですが、本部からは「同じ人はなるべく継続させない事」といった指導を受けます。これは、雇用保険を含む各種保険の負担を回避するためです。当然年金などありません。
ファミレスやスーパーなどのお掃除やメンテナンスの人達は、自社社員がほとんどでしたが、業界団体などの主催のセミナーなどで、いろいろな手法が指導されているためか、一度子会社に移籍させて、「勤務年数に依存する退職金」をちゃらにしておき、今度は「子会社から全員形式的に解雇」して、年俸制による下請け外注化を推進しているため、彼らは大工さんなどの職人さんと同じに「自営業者」となっています、そうです、年収200万以下、実質的には給与所得者でありながら形式上「自営業者」の人々が大量に生まれているのが現状なのです。また雇用する側の提示する収入はよく考えられている金額です、ほぼ「親」や「息子」と同居していて、脛を齧ることを前提としていて、アジア的な家族でもたれ合って生活して行くしかない給与体系となっています。企業が決めるこの給与計画の中には健保を支払うことは前提となっていても、年金を払う余裕を認めてはいない、生かさず殺さずの金額なのです。
例えば、27才で離婚して17才の高校生を抱える40才母子家庭の場合、大手チェーン店のパートさんとしての月収が手取り15万円、スナックでのアルバイトの手取りが5万、合計20万ですが、支出は家賃が7万、学費などが3万、光熱費などが1万、食費や服飾費などが7万で国民健康保険を払うと、年金を払う余裕はありません。とりあえず免除申請をしても、永遠に後納できるわけではないので、年金受給は不可能です。こんな状況になっているのにどうやって年金制度を維持して行くのか、謎は深まるばかりです。