2004/05/12

都会的な事

都会的な事....
ペイヴメントの下水溝から路上に吹き出す暖房スチームの排蒸気に霞む冬の夜の街灯の灯。
黄昏時のオフィスの回転ドアの外、行き交うタクシー黄色い波間に見え隠れする道向こうのバーの窓の中、カウンターにもたれかかるコートを着たままのカップルの影。
深夜、仕事の帰りに向かう高架鉄道の駅手前の角のダイナーの窓、手の付けていないアップルパイ一切れと、お代わり自由のコーヒーカップを弄びながら所在なげな若い女性の姿。
このような都会の風景イメージは、実際毎日のように新聞に折り込まれるマンションのチラシ、TVのCM、ファッション誌のグラビアなど、いろいろな広告媒体の中に日常的に見かける事が出来ます。
では、このようなイメージは何時われわれの中で都会的な物として認知されるようになったのでしょうか。実はこれらのイメージを支える重要な「都会的なキーワード」があります。
「深夜営業のコーヒーショップ(ダイナー)」、「高架を走る通勤電車」、「地下鉄」、「働く女性」、「バー」、「摩天楼(高層ビル)」、「疾走するパトロールカー」、「通勤に使う自家用車」などのキーワードが体現する「都会生活」は実はほとんどが戦前のニューヨークで完成された、ニューヨーカーの生活を表現したイメージなのです。
また、当時のパリ、ベルリンなどの都市、規模は小さいながらも帝都東京のイメージでもありました。
これらのイメージを、我々の前に最初に提示したのは、やはりアメリカの小説やそれらを原作とした映画などでしょう。戦前から戦後に書かれた都会を舞台にしたいろいろな小説が、日本にも翻訳されて大量に入ってきた昭和20〜30年代、実際すでにこれらのイメージはほとんどの読者に具体的な「都会的な事」として認知されていたようです。特にこれらのイメージはいくつかのミステリーシリーズの背景として重要な意味を持つものでした。
実際、「E.S.ガードナー」原作の「弁護士ペリーメイスン」シリーズや「検事ダグ・セルヴィ」シリーズなどの背景にはまさにこれらの「都会生活に特有な」イメージが重要なキーワードとなっています。1960年代に日本でもTV放映されたことで覚えている方も多い「弁護士ペリーメイスン」シリーズは戦後の割合に早い時期から「ハヤカワミステリ」シリーズで大量に翻訳刊行されています。私もこのシリーズを神保町の古書店「東京泰文社」で買っては通勤の楽しみとして読んでいましたが、何冊も読んでいるうちに翻訳された文章にある「違和感」を覚えるようになってきました。それは重要な登場人物である探偵のポールドレイクが深夜のオフィスで食べる冷えてまずい「ひき肉を挟んだサンドイッチ」や「ペリーメイスン」が美人秘書の「デラ・ストリート」(この2人がいつ結婚するかが戦前戦後にまたがるこのシリーズの長い刊行期間の最大の話題だった)とレストランで食べる「ヒレ肉のステーキ」の名称などの、生活上のディティールについてです。皆さんももう気付いたと思いますが、「ひき肉を挟んだサンドイッチ」はハンバーガーの事で「ヒレ肉のステーキ」とは「フィレミニヨン」の事です。これらの小説が翻訳された時点では、日本人の訳者にはこれらの物を知らなかったか、読者が知らないと思っての意訳となったのでしょう、実際これを読んだ当時の日本の読者には」、これらの物の名前から具体的なイメージを喚起される事はなかったでしょう、昭和30年代の日本には、極めて局所的にしかこれらを見かける事ができませんでしたから。さらに当時の大部分の読者にとって実感がなかったのは、もっとも都会的な部分「24時間営業の店」や「働く有能な女性」、「ファーストフード」、「離婚問題」、「オフィスの恋愛」、「自家用車で通勤する女性」、「オフィスに響き渡るタイプの音」などでしょう。これらの事が実際に自分の事として実感され、小説の提示する「都会的なシチュエーション」が自らの事として理解されるようになったのは、ごく最近のことですから。